(平成六年五月一日)
布教八十年大祭記念誌より

『神さまの光を浴びて歩む道』

様の『まことの光』に照らされたならば、私たちは常々、幻を描いて生きているとも言える。その幻は最大公約数的なもの、最小公倍数的なものをも、おりまぜながらその人特有の幻をもって生きている。それは例えば生きてゆく環境が同じでなく、ひとつ屋根の下に住む家族でさえ、各々置かれている位置が違い、親としての居場所(立場)、子としての居場所、また、夫としてのそれ、妻としてのそれなど、それぞれ違う置かれた場所で考え生きてゆく。お互いに死角があることに気づかず、相手の見えない姿、見えない部分を自分の好きなように描いたりする。これが案外、偏見になったりしている。これもまた幻である。

神様に向かい、神様に出会うことによって、自分の幻をひとつひとつはがして頂くのであるが、それがつらいこともある。幻を真実だと思っているものにとっては、はがされまいとして抵抗したりするので信心もひまがかかる。

今まで幻になれ親しんできたものにとっては、それをぬぎすてることに不安や恐れが湧いてくる。しかし恐れることはない。そのときのために神様は取次者としての先生をご用意下さっているのである。先生に接し、お話を聞かせて頂き、話を聞いて頂いたりしていくうちに、不安や恐れが取りのぞかれてゆく。先生を信じて、先生のお話を聞かせて頂くものは、助かってゆく。おかげを頂けないものは、先生を先生として頂くことが出来ない。

生を神様の取次者として頂けば、先生を通じて神様のお働きをうけることが出来る。だが、先生を人間的にのみとらえ、教会の中だけで生きておられる先生に、自分の苦しみなんてわかってもらえるわけがない、などと思いがちである。そうなったら、自分の幻の世界の中へ、先生をひきずりこむようなものである。これでは、とうてい神様のお働きをうけることなど出来ない。

複雑怪奇な今の世にあって、今こそ、わが心の神に目ざめなくてはならない。そのためには、自分の幻を脱ぎすててゆくことに勇気をもつ。先生を信じ、先生に親しんでゆく。それが神様を信じ、神様に親しむことになるのだから。

仕事をするのも、家事をするのも『する』のではなく、すべて『させて頂く』ようになりたいものである。

間関係においても、むづかしい人に出会ったら、その人に対して悪意を持つのではなく、その人の言動に対して、どのように受けとめるかが問題である。また、その人がしていることに支配されることなく、神様がその人を通して問うておられることをさがし、見つけ出して、それに応えられるよう精いっぱいがんばる生きかたをさせて頂きたい。これは決して楽な道ではない。人はどうしても自分が『かわいい』から、自分を『よし』として、他を悪く思いたいものである。それとは逆の道を進むのであるから苦労の道である。信心するものは、あえて苦しい道を歩いてゆく。しかし、これこそが肋かってゆく道、ただひとつの道である。

また、苦しみだけがあるわけではない。神様は先生をお与え下さっている。

 私たちは神様の『分け霊』なのだから、私たちが一心になって向かえば、先生の一心に呼応し、神様が働いて下さる。これほど力強いことはない。疑いをもって、幻の心で向っても、もどってくるものは自分の幻の『こだま』にすぎない。 

この布教八十年の記念の今日の日を機会に、それぞれの所で今、頂いている信心を改めて見つめ、もう一歩深く進め、神様に尚一層おそばに近寄らせて頂き、神様からの光を浴びて、内なるわが心の神の光を輝かせることができるよう、心から打ちこんで神様に向かわせて頂きたい。そして内面からも光らせるようになれば、世界はわが心にあることを感得させて頂けるのである。そうなれば苦労の道は、自ずから幸福の道へと変貌を遂げて、楽な道となってゆく。
 神様は、はるかなる昔から、遠い未来の刻(とき)を超えて、いつも『今』助かりへの道を開けて私たちを招き、待ち続けて下さっているのである。